古い写真、リチャード T. リーディコートJr.氏

昨日、古い書類を整理していたら、汚れた色紙と色褪せた写真が棚の奥の方から出てきました。 この写真は、「今井理事長が、東南アジアで初めてFGAディプロマを取得して、宝石協会を設立したことを聞いて、アメリカGIAからわざわざ、理事長にお祝いに来日しいた時の写真です」と書きたいところですが、実際はそうではなくて、リーディコート氏が、日本人が、英語でコミュニケーションをすることが出来ないのにもかかわらず、イギリスでFGAを取得したことに疑問をもって、わざわざ日本まで来て、本人に会って直接口頭でテストをした後に撮影された写真です。



リーディコート氏は、英語の翻訳者と理事長の間で何かトリックがあるかもしれないと疑念を持ったのですが、いくつかの口頭尋問の後で、理事長に宝石学の充分な知識があることを確認して、満足していたそうです。


一番左端が、理事長、そのとなりの二人は誰だかわかりません。顕微鏡の前にいるのがリーディコート氏、一番右の人も誰だかわかりません。(さほど重要人物ではないので、調べないです。)  

当協会設立後は、理事長は教育に力を入れていた時が一時あって、リーディコート氏の許可を得て、彼の著書である “Handbook of Gem Identification“の日本語に翻訳して、「宝石鑑別ハンドブック」として日本宝石学協会から発行しました。  

リーディコート氏は、ある意味、日本宝石学協会に新たな方向性を見出すことを助けた人物です。 当初、協会設立後は、主に宝石鑑別書だけの発行だけでしたが、当時のGIAのダイアモンド鑑定システムに基づいたダイアモンドの宝石鑑定書も発行し始めました。 問題は、「カット減点5%以内のアイディアルカットのダイアモンドなんて存在しない」という業者からのクレームがあったことで、理事長は、ロンドン、ベルギー、インド、香港など、当時ダイアモンド主要マーケットの業者にアポを取り会いに行き、5%以内のダイアモンドを探していましたが、見つけることが出来ず、半ば諦めていました。そこで、リーディコート氏に問い合わせて見ると、アメリカのダイアモンド業者で、アイディアルダイアモンドをカットしている三社とコロラドにあるヘスという小売店を紹介してくれたのです。 この事によって新規のビジネス展開に繋がりました。

紹介して頂いた3社のうち、2社と話がついて、アイディアルカットダイアモンドの輸入が始まるのですが、最初のうちは、輸入する全商品をカルフォルニアのGIAに送り、それから輸入していました。 当時担当だったMさんによると、「あの頃、GIA でダイモンドの鑑定書を頻繁に使っていたのは、うちとカイガーぐらいで、GIAは、他の業者はほとんどGIAで鑑定書なんか作っていなかったよ。」と言っていました。これはその当時のGIAの鑑定書です。 ダイアモンドの鑑定には、多くの経験が必要ですが、すぐに鑑定書を発行できるようになったのは、GIAの鑑定書が基準になっていたからです。



その後、今も何かと協力していただいているH氏が、理事長の紹介からアメリカのGIAに留学して宝石学を学んでから帰国後、当協会のダイアモンド鑑定と鑑別を担当したこともあって、ある程度何らかの交流があったのですが、70年代の半ばに、アメリカGIAで、日本に学校と鑑別団体を設立する話があり、その協力団体に、当初は日本宝石学協会に話があったのですが、当時は新規事業に乗り出したばかりだったので、丁重に断わらなくてはならなかったそうです。 それ以降、当協会とリーディコート氏は、疎遠になっていきました。

80年代に入り、私がカルフォルニアGIAに勉強に留学することが決まり、学校で会えることを楽しみにしていました。 ですが私の入学した月の数週間前に、リーディコート氏は心臓麻痺を起こして入院してしまい、GIAの学長から一時退きました。退院して戻ってきたのは、8月末でしたが、その前にスプラットフォードさんから「リーディコートさんへ電話をしておいたから、一度会っておきなさい。」と言われていたこと、リーディコートさんの病状の情報などが全くわからなかったこともあり、いつでも面会できるように、カルフォルニアの夏の暑い太陽の元で、他の人がジーンズで登校しているのにもかかわらず、毎日スーツを着て学校へ行っていました。 当時のスタッフのBさんが、「何で毎日スーツを着て学校へ来ているの?」と聞かれて事情を話した所、直ぐにアポイントメントを取ってもらいリーディコートさんと初めて会うことができました。(このエピソードを目にした当時の友人と話をすると、未だにこの時のことの印象が強かったみたいで、良く話題にあがります。)

そもそも「宝石学」とはなんだ?という問題がつねに宝石学を勉強する人々にはある意味、取り憑いています。 今井理事長はそれを完全なる「サイエンス」として捉え、それに従って研究や開発を行っていた時期がありました。それに対し英協のハリーウィラー氏は、科学よりも鉱物学の一種または一部として見ていたと思います。Mさんに同様のことを聞いてみた時には、「いや、初めてジェもロジーという言葉を聞いた時には思わず吹き出したよ。なんとかロジーって、無理矢理言葉を作っているし、当然インチキ科学に決っている。」と言っていました。そこでMに、リーディコート氏は何と言っていましたかぁ?と問い合わせてみると、やはり「科学」としての捉え方には、完全に納得しているわけではなく、GIAは「あくまでもTrade School = 職業訓練所」だと話していたそうです。 リーディコート氏は、2002年癌で亡くなったのですが、私がGIAを卒業した翌年AGSのコンクレーブがアトランタで会った時が、最後になってしまいました。

リーディコート氏のことで、今でも忘れられないことがあります。 GIAでGGのコースが終わり卒業したその日、私の受け取ったGGの卒業証書には、会長を離職したリーディコート氏のサインが入ってなかったので、事情を説明して直接サインを頂くために無理を言ってリーディコート氏のオフィスへ挨拶に行きました。 そこで、その当時、父の最後のプロジェクトであったコンピューターを使ってのカラー解析するシステムの説明をしたのですが、リーディコート氏は、その時にとても興味をもって私の話を聞いていました。今から思うと、M に言った「職業訓練所」というはっきりした割り切り方は、リーディコート氏にはなかったと思います。

「私の父は、このビジネス多くの敵を作りました。」と私が言った後、リーディコートさんは、まるで私を落ち着かせるように、ゆっくりとした口調で「だけど、君のお父さんは、多くの友人も作ったよ。」と別れる前に言ってくれました。